<写真>
<説明>
松江開府の祖 堀尾吉晴公 堀尾吉晴公銅像建設委員会
天文十二(一五四三)年、堀尾泰晴の長男として尾張国御供所村(愛知県大口町)に
生れた吉晴は、幼名を仁王丸、長じて小太郎と称し、次いで茂助と改めた。父の仕えた
岩倉織田氏が織田信長により滅ぼされると、早くから豊臣秀吉に仕え、長篠の戦い、備
中高松城攻めに活躍し、山崎の戦いでは天王山を占拠して明智光秀を敗走させた。
賤ケ岳、小牧・長久手の各戦に武功を樹て、秀吉のもとで近江国佐和山四万石、遠江国
浜松十二万石へと出世した。朝廷春宮坊護衛の長官を意味する帯刀先生にも任ぜられ堀
尾帯刀と称した。容貌端正、性格温厚で仏の茂助と呼ばれた反面、戦場では勇敢に戦い
鬼の茂助とも呼ばれた。秀吉の信任厚く、政務仲裁役である三中老の一人に任ぜられた。
秀吉没後は徳川家康に与みしたが、三河国池鯉鮒の刃傷事件で重傷を負う。家督を継
いだ子の忠氏が関ヶ原の戦いに出陣し、その功で出雲・隠岐二国二十四万石を与えられ
た。父子は尼子氏の旧城富田城(安来市広瀬町)に入るが、広い城下が見込め、交通の
要衝である松江に拠点を移すことを決める。城地をめぐり父子で意見が分かれたが、忠
氏の急死後、吉晴は子の志を継ぎ、亀田山に城を築きその麓に城下町を造ることを決意
する。吉晴は秀吉も認める普請上手で、北の丸で指揮を執ったと伝わっている。慶長十
二(一六〇七)年に着手し、五年目、城下の完成を目前に六十九歳で没した。この像は、
松江城の築城とその城下造成を指揮する、吉晴の雄姿である。
題字 金津大潮
彫刻 西村文男
平成二十五(二〇一三)年六月吉日
<地図>松江市殿町
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